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真真の中国滞在記

真真の中国滞在記

西安・北京旅行

西安・北京の旅より戻ってまいりました~。
ちょっとずつご紹介していければと思っています。

まず本日第1弾は。。。

人多すぎ 人・・・

人多すぎ 人ひとヒト・・・

人多すぎ 多すぎ!

ということで、人にモミクチャになった旅・・・

教訓:大型連休は外に出るべからずっ!!



ドイツもコイツも私も。。。他に行くところがありません。。。


【西安 その1】
南京から飛行機で2時間、突入したのは西安。
西安空港
付近に西周・秦・前漢・隋・唐の都が置かれた歴史の深い都市。前漢のころから「長久平安」を意味する"長安"の名前が使われ、明代1369年に西安府と命名。シルクロードの起点となる都市で、東に進めば朝鮮半島を越えて奈良が終点。西安の歴史は紀元前11世紀、周の武王が殷を滅ぼし西周王朝を建てたことに始まる。その後秦の始皇帝が初めて全中国を統一し、唐に至る13代の王朝が西安に都を置いた。実に2000年に及ぶ歴史都市。


機内より西安風景
機内より眺める西安は、永遠に続くのではないかと思うぐらいの平原。ポツポツと小高い丘があり、これらは歴代の大臣や王族などの古墳。(古墳については後日UP予定)


西安の街
↑西安の街は、城壁がぐるりと囲んでいました(東西約450m南北約300m)。聞くところによるとこの城壁、中国人の皆様が頑張って頑張って修復したもので、あまりにも綺麗に修復しすぎたために、「修復しすぎっ!」と世界遺産認定却下されたそうです。。。(現在の西安城壁は、1980年に組織された「西安城壁保管所」によって1983年から全面改修されたものです。)こういう修復作業は意外と得意ですよね、細かくて丁寧な作業、他にも発揮しろよ。。。と思わず突っ込みでした。
城門は四つあり東の長樂門、西の安定門、南の永寧門、北の安遠門。



やる気を出せ
↑城壁の入り口には、観光地特有の「やる気のないバイト」がいます。しっかりしているのは衣装だけ、ダラダラタラタラフラフラし、おしゃべりに夢中です。おかげさまで雰囲気は台無し、イライラするだけの無駄な存在となっていることに気がついていただきたい(笑)。


城壁の上
↑城壁の上に登ってみると、「城壁、デカすぎっ!」とその大きさに圧倒されます。(唐代の長安・城壁都市は、現在の西安・城壁都市の6~8倍の大きさであったと推定されています)。ここで兵士の訓練などを行っていたとのこと。自転車をレンタルして散策することも出来ます。


城壁外の街
↑城壁の外側の街


城壁内の街
↑城壁の内側の街

城壁の外と内では、街の様子が違います。外側は近代的なビルが立ち並び、経済的に潤っている香りがします。内側は高さが低い建物が多く、聞けばやはり高さ制限などがあるそうです。

レンガで出来ています
↑城壁の上からは普通の人が住む家も見えます。やっぱりレンガで出来ています。同行した日本人がポツリとジョーク。「僕はね~、中国人はレンガを積む作業に関しては世界一の技術を誇ると思うんだ、城壁も万里長城も綺麗に積み上げてるしねぇ~。でもテトリスになると頭使わないといけないから、不得意なはずだよ。」大笑いです♪


ゴミ箱
↑世界的にも有名な西安、ゴミ箱にも小さな気遣い?古い時代っぽいデザインにしてくれています。小さなことなんですが、景色に合うデザインって大事ですよね。


碁盤の目の街
↑街は碁盤の目。京都と同じような造りになっているそうです。


他に気がついたこと。
クラクションがあまり聞こえないこと。
以前クラクションに対して厳しく規制された時期があったそうで、今でもクラクションは基本的に鳴らさないのが常識となっているそうです。観光地化されていることもあり、接客態度などで腹の立つこともなく、実にお上品(中国にしては)に感じ、ストレスのない休暇となりました。


【西安 その2】
大雁塔

大雁塔
西安のシンボル。唐代に築かれた。慈恩寺は648年に高宗が亡くなった母を弔うために建立したお寺です。慈恩寺内にある大雁塔は、652年唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔です。

小雁塔
小雁塔
小雁塔は、則天武后が夫高宗のために690年に改修した薦福寺の境内にあります。唐の名僧義浄がインドから持って帰った400の経典を納めるための塔として、707年ごろ建てられました。大雁塔と同じくインドの建築様式を模しています。大雁塔が直線的なのに対し、小雁塔は曲線が特徴的です。
15層あったものは、その後の落雷(他説に地震説もあり?)によって、上2層が崩壊したそうです。


小雁塔

昔の農機具なども展示されています。解説や案内などなく、思いっきり屋外に放置されています。。。いいんだろうか、風化甚だしいだろうに。。。と心配になりました。


小雁塔

小雁塔 

塔の敷地内には広めの庭があり、朝のカンフーなどを楽しむ人たちがたくさんいました。最初中国にやってきたとき、「絶対にカンフーを習う!!」と意気込んでいた私、あれから1年経ちました。。。そんな私を見て「僕、カンフーの先生と友達だから紹介してあげるよっっ!!」と言っていたのに、、、アイツめ、あれから1年経つぞ。。。結局私もアイツも、やる気ないんだよね。。。


【西安 その3】
中国突入1年目記念の今日。別にいつもと変わらない朝がやってきて、いつもと同じようにクラクションがうるさい朝です。。。

さて西安の旅行についてです。

鐘楼
鐘楼は西安市内の中心にあります。ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じています。この四つの大通りが市内の交通網の基軸となっています。
鐘楼は正方形の木造建築で、高さ36m、敷地1377平方m、高さ8mの煉瓦造りの土台の上に立っています。
昔、時を告げるため、明の洪武十七年(1384年)に造られました。1582年に今の所に移りました。鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わってから東西南北にある四つの城門がそれぞれ開けられたと言われます。
街と上手く共生しているように見え、「温故知新」って四字熟語、そういえば習ったよなぁ。。。と。




鼓楼

鼓楼
鐘楼と向かい合って、西北に500メートルのところにももう一つの立派な古い建物鼓楼があります。鼓楼は鐘楼より4年早い西暦1380年に建てられました。昔、鼓楼には大きな太鼓があり、夕方になると太鼓を叩いて時刻を知らせるので、鐘楼の「晨鐘」と同じように、「暮鼓」という言葉があり、鼓楼と呼ばれるようになりました。




西安・回民街

市場
また鼓楼の後ろ側には回族の多く住む街、回民街があります。通りを歩くと、香辛料の香りがしていて、少し中国とは違う香りがします。市場ではトライフルーツなどがたくさん売られ、これがとても美味しくて。たくさん買い込んでしまいました。



時を太鼓と鐘でお知らせするなんて、とてもロマンに感じました。昔の鐘の音を録音してあり、毎朝流すというウワサを聞きましたが、残念ながら聞けませんでした。



【西安 その4】
ちょっと小休止。
西安で食べたお料理のご紹介です。
夢中になって食べるあまり、撮影してないものがほとんどです。。。

宮廷餃子
西太后も喜んで食べたという宮廷餃子。その種類は100種類以上あるそうで、小さくて手の込んだ餃子が次から次へと出てきます。色も形も様々で、中身も実に様々。
「西安へ旅行へ行くんだ~」というたびに、「西安は小麦粉しか食べない米が一切無い地方。日本人には絶対辛いという答えが返ってきていました。


なのに。。。
宮廷餃子の中身に。。。
「焼き飯」が入っているのはどういうことだい?!


他にもトマトやセロリなどの変り種が目白押し。どれもこれもいつもの餃子とは変わった味で、実に豪華なお食事でした。


翌朝、「米が一切ない」とさんざん聞かされていたのにこんなメニュー発見。
ピータン粥

「ピータン粥」!!


米あるじゃん。。。
思いっきりあるじゃん。。。

街を歩けば日本料理はあるし、回転寿司まで。。。
一切ないって言ったじゃん。。。
日本人には辛い街って言ったじゃん。。。
寿司も小麦粉でできているとでもいうんか。。。



さてさてそれはさておき。。。
豪華ディナーその2
唐の踊りを見ながら、唐の時代を再現した食事を楽しむ♪ということ。
ほうほう、これは相当楽しみです。

唐の踊り
踊りはとても綺麗で、見とれてしまいます。他にも剣を使った踊りや龍が出てくる踊りなど、たくさんありました。


で、唐の料理を再現したものですが。。。
観客の95%がアジア以外の地域と思われる外国人だからか。。。
タルタル?

エビフライにタルタルソース?!
唐の時代にあったんか?!タルタル!!

他にも牛肉のステーキなどが出てきました。。。

絶対唐の時代とちゃう。。。



ローカルにて
見るからにローカルにも入ってみました。色でわかりますか?結構赤くて辛い。。。真ん中が羊の肉炒め、右下は西安に来た目的のひとつである「涼皮」。強力粉を水で洗い、沈殿させた上の部分を使って作られる麺とのこと。透明感があってプリプリ、味は。。。辛いです。。。


辛い豆腐
これはどうやって食べたらいいのかわからない代物。赤すぎるスープの中に豆腐が入っています。当然激辛っ!でもこれが美味しいのなんのってっ!鼻水流しながら完食しました。右はこの地方の主食となる餅だそうです。パンのバター・砂糖抜きで固めましたっ!って感じ、意外と小麦粉の香りがよくて美味しかったです。


西安で食べた食事に共通するのが、いつもの中華とは違う香辛料の香がするということ。「黒胡椒」などです。さすがシルクロードの起点だけあるよ。。。と、過去にいろんな食材がこの地に出入りしていたことを想像させられたのでした~。



【無錫の方へ】
無錫でも「涼皮」が食べれます。しかも相当美味しい♪かなり有名らしくて昼時は行列、テイク・アウトがお勧め、木綿花酒店の観光案内電光掲示板にも載っています。
場所は中山路第2人民病院を左に見つつ南禅寺方向へ。朝陽広場の付近です。めっちゃローカルで小さい店なので見落としがちですが、探してみてください♪辛いけどあれは美味しいですよ。



【西安 その5 ☆メイン・イベント☆】


さて西安で最も行きたかった場所「兵馬俑」です。
この日はもう、朝からワクワクしてたまりませんでした。


西安郊外
殺風景な場所、これはこれでとてもいい景色です。風が強いと砂が飛んでくるそうで、この日も遠くは少しかすんでいました。こんな景色の中、車で1時間半。



兵馬俑博物館
「秦始皇兵馬俑博物館」お一人様90元。


兵馬俑
ワクワクして一号坑へ入ると、目の前に広がるのは圧倒されるような景色。
「デカすぎる。。。多すぎる。。。」しか言いようがありません。

兵馬俑
お馬さんもいます。耳が長いのが特徴。


兵馬俑
一人一人姿や顔、表情や姿勢が違うのがわかりますか?ひとつとして同じものはないそうです。


兵馬俑
実は兵馬俑には色が着いていたってご存知でした?私は全然知らなくて驚いたのですが、顔は肌色、服にも綺麗に色がついているそうです。でも発掘されて2・3時間空気に触れると、色が消えてしまうそうです。ほんの少しだけ色が残っているものがありましたが、こんな数の兵馬俑、作るだけでも大変なのに、色まで塗るってすごい労働力をかき集めたに違いない。。。


兵馬俑
発掘作業中はこんなかんじで兵馬俑が出てきたそうです。



兵馬俑について。レポート?(笑)
1974年、農民が井戸を掘っていたところ、兵馬俑の頭の部分が出てきたのが発見となる。あわせて3つの坑があり、総面積は2万平方メートル余り、約8000体の兵馬俑。始皇帝即位の紀元前246年に築造着手、38年後に完成(完成の頃にはすでに始皇帝死去)となった。陵墓築造に携わった労働者は70万人余りと推測。

兵馬俑の配置は、軍事グループの配置になっており、1号坑の戦陣は戦車と歩兵が一体となって編成された長方形。2号坑は歩兵・戦車・騎兵から編成される曲陣、3号坑は面積・数ともに最小であるが、司令部を守る護衛隊となっている。つまり兵馬俑は秦の軍隊の縮図で、三軍が結集し、2000年を経た現代でも戦闘指令が下るのを待つ雄大な様相をしている。ここでは行進中の戦車の音も、軍馬のいななきも聞こえるような、いわばタイムスリップ感覚を味わえる。

兵馬俑はただの歴史的要素だけではなく、ひとつとして同じものは存在せず豊かな表情を細部まで表現されていることから、芸術的要素も兼ね備えていると言っていい。兵馬俑を具体的に作った人は、秦王朝の下層におかれた製陶職人。彼らの中には宮廷の陶器作業現場から来たものや、民間の陶器作業現場から来た者もおり、いずれも豊富な経験を持つ優秀な製陶職人であった。現在の段階では、名前がわかって考証出来るものは80人余り。宮廷の作業現場から来た者は、軍隊の威武の姿を見る機会が多いせいか鋭い顔つきの雄姿を描き、民間の作業現場から来た者は、下層社会をより理解しているため笑顔や性格、情趣をよく知っており、表情豊かな人間らしさを描いた。

歴史が余りにも古いこと、発見されたのが1974年と最近のことであり、未だわからないことが多い。でも「わからない」ということは実に浪漫だと思った。始皇帝がどんな意図でこのような奇跡を作ろうとしたのか、その奇跡を作り上げる過程や発見されるまでの沈黙など、見る者それぞれが自由に想像の世界で遊ぶ事が出来る。

100人いれば100通りの物語がある。それが兵馬俑なんだと感じ、私だけの神話の世界が出来上がった西安のメイン・イベントとなったのでした。

【参考『秦の始皇帝の地下軍団「世界の八番目の奇跡』 中国旅行出版社】




★☆本日のお薦めCHINA★☆

中国中央電視台が壮大なロケで映像化した始皇帝のTVドラマ2本に、始皇帝の歴史遺産をたどる紀行ドキュメンタリーを加えた豪華BOX。
世界八番目の奇跡をご自宅でゆっくり味わってみるのもいいと思いますよ♪





【西安 その6 ☆お墓登り??☆】
お墓参りが続きます、西安 その6は。。。
前漢 7代目皇帝 武帝の陵墓「茂陵」についてです。

習ったよな。。。高校のとき、絶対習った。。。
霞がかかった記憶を手繰り寄せます。世界史は数学の次に成績が悪く、一夜漬けで赤点クリアしていた私です。ということで、軽く復習。

武帝(位 前141~前87年)
武帝統治時代は前漢の最盛期となり、外征を繰り返した結果領土は秦時代の倍に。シルクロードを中心とした交通路を開いて交易を盛んにし、漢帝国の威光は北は万里の長城以北、南は仏印、東は朝鮮、西は中東まで及んだ。
中央集権を確立、優れた人材を適材適所に使いこなし、これがなかったら歴史はわからなかったのではないかと思われる『史記』が作られたことをなど、五経博士を設け学問の研究を盛んにし多くの経学者を出すなど、文芸面でも優れた実績を残している。秦の時代に統一された文字を元に、現在の漢字の基礎を作り、他にも中国や日本で年号を漢字で表すようになった始まりは、武帝の定めた『建元元年』に端を発したもの。

功績の多い反面、相次ぐ外征で戦費がかさみ、おまけに大規模な土木工事や栄奢を極めた生活ぶりも手伝って国家財政の危機をまねいた。財政を立て直すため貨幣の乱造に増税、塩の専売や農業奨励を行うが焼け石に水。増税の結果多くの流民を生んで、内政的にはむしろ国内を混乱させている。

ということで、現在の日本も漢字を使い年号を使っているので、この人物あってこその今の日本かもしれない。。。と感謝しつつ。。。

なんと・・・
お墓の頂上まで登りました・・・
バチはあたらないのか・・・

茂陵
観光用に特に整備された場所ではなく、「近所にある丘で遊んできます~」といった感じの存在で、近所の子供の遊び場にもなっています。中国にとっても功績が多い人物なのに、陵墓を特別に管理しなくて大丈夫なんだろうか。。。痛んでいくのではないだろうか。。。と余計な心配。



茂陵坂道
観光用に特に整備されていないので、こんな坂道を登ります。斜面が急すぎて、足がズルズル滑る。。。かなり怖かったです。靴や荷物の具合によっては、登らないほうが安全です。



頂上から他の陵墓も
頂上に上ると、こんなに雄大な景色が待っていました。永遠に続きそうな平原、所々に丘が見えます。これらも陵墓で、大臣などのお偉いさんを祭ってあるそうです。茂陵にたどり着くまでの間、大小さまざまの陵墓を多く見ました。力のあった歴史がここに存在していたことをうかがわせます。



地平線
水平線は普通に見たことがある。しかし地平線って見たことがあったっけ???これをまっすぐ行くとどこにたどり着くんだろうか、シルクロードなんかよくもまぁ旅したもんだ。。。いろんな事を感じながら、この地平線に感動してしばらくここを去りたくありませんでした、あの急坂を下らないといけないし。。。


歴史と共に
茂陵の周りは麦畑。歴史と共に今を生きるその姿が美しく、有名な皇帝から名も知られない庶民まで、人間が繰り返してきた歴史があってこその今の自分であると思った。



歴史というのは人類にとって、いわば「日記」のようなものであると思っている。もちろんわからないことも多く、時に新しい発見があって書き換えられたりするので、生き物ではあるんだけど。時には歴史を紐解いて、そこから反省や教訓を得、経済面という意味ではなく人としてさまざまな意味の豊かな「日記」を書いていけるようになれば、素敵な世界になるのになぁ。。。普通の日常生活にも参考になることもあるから、ちょっとは勉強したほうがいいな。。。と、過去の赤点ギリギリを今更挽回する気になった1日でした。


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